対談:一緒にお仕事

エディトリアル・ディレクター、
プロデューサー

石川次郎さん

PROFILE

忘れられない案件をともにしたクリエイターの人たちと「あの頃のこと」や「仕事について」アレコレと。第2回は、テレビ番組で一緒にブータンを長期取材した、伝説の雑誌編集者であり、旅の先生ともいえる石川次郎さんです。



<その1>

田中敏惠(以下T)そういえば次郎さん、この間メルボルンにいらっしゃってましたよね。
石川次郎(以下I)そう、日本航空が成田ーメルボルン直行便を就航したのを機に、機内で観られるプログラムのプロデュースでね。メルボルンは、7年連続世界で最も住みやすい都市に選ばれているんだけれど……。
T へぇ、そうなんですね。
I その魅力を、生活目利き役を標榜しているビームスの面々が検証する、というのがテーマ。
T さすがの次郎さん企画ですね。次郎さんは、旅をしてそれをメディアで発信するということを、それこそ60年代のマガジンハウスの編集者の頃から今にいたるまでやっていらっしゃいます。私は2008年にBS朝日のドキュメンタリー番組『ZOOM ASIA』で、ブータンにご一緒しました。次郎さんの旅での取材スタイルって基本的には昔から変わらないんでしょうか。というのも、私は2006年から今まで(2018年3月)ブータンへ9回取材に行っているんですが……。
I 僕と一緒に行ったのが3回目だったよね。
T はい。
I もう、9回にもなるの!?
T そうなんですよ。その9回の中で、いろいろなクルーと取材に行きましたが、次郎さんの旅や取材のスタイルは他の誰とも違っていたんです。
I へぇ、どういうところが?
T アンテナの感度でしょうか。例えば、当時の外務大臣夫人でイタリア人のパトリツィアのテキスタイルサロンを訪れたのも、当初の予定にはありませんでしたが、次郎さんが情報を手に入れて「行こう」ということになったり……。
I 偶然だったよね。
T はい。訪れた寺院の壁面に描かれたマンダラを描いた人の工房を訪ねたりしたのもそうでした。
I したした。
T ハナの利き方、勘所の素晴らしさは、あれから10年近く経っていますが忘れられません。パトリツィアのことも確か、プナカという場所で出会ったアマンコラのゲストから次郎さんが教えてもらって、彼女が翌日の滞在地である首都のティンプーにいるから訪ねてみようと、アポ無しで行ったじゃないですか。
I そうだった、そうだった。
T 本来なら外務大臣邸ですから、訪れる場合は必ずアポイントメントが必要なのに、交渉したら中に入れてくれたんですよね。そういうふうに、結果として知られざる情報を手に入れたり重要人物に会えたりしたことが何度もありました。


“海外取材のアポイントメントも自分で
とらなければいけないし、不完全な英語で
インタビューしなくちゃいけない。
編集者はそれが普通だった”(石川次郎)


I でも僕はね、それを大それたことだと思っていないんですよ。自分たちの世代の編集者なら当たり前のこと。雑誌の編集に関わりはじめたのは1964年ぐらいからで、実際に編集部に入ったのは1967年です。その頃から海外取材を見据えていたし、そういうことをやれというミッションも受けていたこともあるけれど、とにかくベクトルが海外に向いていた。
T はい。
I しかし、当時は誰も海外取材地の情報をもっていなかった。コーディネーターなんて人はいないんだから。新聞社は特派員がいて状況はもっと恵まれていましたが、出版社系の雑誌にはそういう取材の情報や段取りをやってくれる人がいるわけではなかった。それでも海外取材をやろうと言い出した人もすごいけれど、引き受けた僕も無謀だったよね(笑)。
T (笑)。
I とにかくさ、英語もろくにできないなのにインタビューだってやったんだから。
T えぇー。
I アポイントメントも自分でとらなければいけないし、不自由な英語でインタビューしなくちゃいけないなんてめちゃくちゃだよね、考えてみたら。でも当時はそれをやらざるを得ない状況だった。それをやってみたら結構記事が書けたんだからね。そういうことが当時は普通だったから、自ずと鍛えられて筋肉がついたんですよね、取材の。でもそれは僕だけではなくて、当時の雑誌編集者で海外に取材に行こうという人はみんなそうやって力をつけたと思うよ。自分で探すのは当たり前だったしね。
T はい。
I 今、コーディネーターという人が取材をサポートしてくれるので、編集者はずいぶんと助かっていると思うけれど、同時に編集者としての特権であるおもしろい仕事をひとつ失ってしまったんじゃないかな。そこが一番おもしろい部分でもあるのに。



<その2>

“当時から僕は「仕事とはおもしろいもので
あるべきだ」とどこかで思っていた”(石川)

T イタリアンデザイン然り、ヌード然り、次郎さんが雑誌のムーブメントを牽引してきた、新しい扉を開いてきましたよね。けれど個人的には、次郎さんといえば旅がいちばん大きな存在であるんじゃないかと思っているんですが……。
I うん、たしかにそれはおっしゃる通りだね。これは後に振り返ってみてわかることなんだけれど、やはり僕の人生に旅ってとても縁がある。最初はそんな意識はなかったんだけれど、仕事を続けていく中で「僕にとって旅は人生のテーマなのかもしれない」と思うようになっていったんだ。僕が大学を卒業し社会人となったのは1964年。ご存知のように64年は戦後初めて海外旅行が自由化された年。この64年というのはとてもおもしろい年なんだけれど、海外旅行の自由化というニュースは当時としてはあまり大きいものではなかった。
T そうだったんですね。
I 64年といったらなんといっても東京オリンピックでしょう。高度経済成長で、日本中が沸き立っていて道路も鉄道もなにもかも新しく変わっていたすごいエネルギーがあった年。僕は図らずもそんな年が世の中に出るタイミングだった。でも自分で自分の仕事を選ぶなんてそれまで考えたことがなかったし、将来何になりたいなんてことも本気で考えたことはなかった。なかったんだけれど、新聞にあった海外旅行自由化の小さな記事を見て「日本人もこれからは自由に海外に行けるようになるんだ」と思った。それは僕にとってはオリンピックよりも新幹線よりも大きなニュースだったんだ。その記事を見た後に。初めて自分がやってみたいという仕事を見つけたような気がした。
T はい。
I 海外旅行が自由化になる64年の3月に大学を卒業する訳だから、もうこれが自分がやる仕事だって思ったんだね。それでどこかに潜り込まなくては行けないと思ったけれど、海外旅行の代理店はまだまだとても少なかった。海外旅行者がいないんだから。年間10万人とか15万人とかしか渡航者がいない時代、今は2000万人の時代でしょ。まさに海外旅行、ツーリズムビジネスの曙だった。
T はい。
I 僕はツーリズムにピンときて旅行代理店に就職しようしたけれど、そんな人間は他に誰一人いなかったね。
T そうだったんですね。
I 経済的に発展していた時期だったからみんな大きな会社を目指したし、就職難なんて言葉もなかった。大きな企業はやはり人気があり、仲間は銀行とか証券会社とかにつぎつぎに内定していったけれど、僕はそういうのに興味がわかなかった。仕事選びってそういうことじゃないんじゃないかと思っていた。当時から僕は「仕事とはおもしろいものであるべきだ」と、どこかで思っていたんだよね。
T なるほど。
I そうして決めあぐねている僕を心配してか、親が某超大手証券会社に口をきいてくれて「この人に会いに行きなさい」と言われたの。けれどそれだけは拒否したんだよ。唯一自分でやってみたいと思ったのがトラベルエージェンシーの仕事だったわけ。だから最初から編集者になろうなって思ってなかったの。
T 最初は旅行を仕事にしようと。
I 当時から雑誌は大好きだったよ、大好きだったけれど、編集という仕事が出来るとは思ってなかったんだ。平凡パンチの創刊の頃に、ちょうど読者ターゲットだったということもあり、とある縁から社外モニターをやったりはしたんだけれどね。
T 次郎さんが旅行代理店に就職した当時は、業界もとても小さいものでしたよね。
I 小さい小さい。さっきも言ったけれど、海外に行く人なんて20万人いなかったんだから。また今と旅の手配の仕方も全然違って、まず外貨の枠を取りに行くんだよ。海外旅行のために日銀へ行って外貨の申請をするの。
T 日銀ですか!?
I そう。その申請書には、(海外から)招聘されているという証明書が必要で、大きな病院の院長夫妻なんかがなんとか外国に行きたいというと、僕がその申請をするんだよね。その際は学会が開催されるので海外の団体や協会からの招聘があったという書類をでっち上げるわけ。
T でっち上げる!
I レターヘッドなども自分でタイプで打ってね。ロンドンのセントジェームス・ホスピタルとか。でも、日銀の方だってそれが本物ではないことは暗黙の了解なんだよ。形式が揃っているんだからいいということで許可をくれる。外貨解禁寸前の状況ですね。
T へぇ。でも旅行代理店時代の次郎さんのお話を伺っていると、編集者時代の次郎さんとお仕事のスタンスはあまり変わらないような……(笑)。
I ははは。クリエイティブでしょ(笑)。はじめて担当した産婦人科のお医者さんの団体30人のツアーは僕が自分で集めた。外国行きたい一心でね。それでツアーコンダクターとしてはじめて行ったんだけれど「お前、ヨーロッパはじめてだろう!」とすぐバレちゃって。でも許してくれたけれどね、若かったし。向こうは病院や医療施設を回るわけだけれども、僕は街をみたくて仕方ないんでおもしろくないわけだよ、そういうのは。それで帰ってきて「これは自分の仕事じゃない」と思って最初の添乗員体験だけで(会社を)辞めたんだ。だって目の前におもしろい街がある、店があるのに行けないんだから。
T へぇ。
I それでも外国に行きたい気持ちはとっても強くて、編集者になればなんとかなるかも、と入れてもらったというわけ。



<その3>

“編集者には、疑り深い、飽きっぽい、
それでいながらしつこいというのも大事”(石川)

T 私が次郎さんと旅をご一緒したのは、先程も話したブータンでの取材でした。忘れもしませんが、初めてお会いしたのもここJ.I.で、ディレクターの森脇美樹さんも同席していたんです。友人の編集者の岡田有加さんに紹介してもらって……。
I そうだったね。その場で決めちゃったんだよね。行こうよって。
T そうです、そうです。それで帰りのエレベーターの中で有加ちゃんが「多分次郎さんの頭の中ではもう行くつもりでいると思うよ」って言ったんですよ。
I そんなこと言ったの?
T はい。それでテレビ番組の企画として通って実際に行くということになったわけですが、ブータンって取材先としては非常に特殊じゃないですか。ビザも含め、手配が複雑。しかもテレビとなるとディポジットで数千ドル預けなくてはいけなかったりして……。
I そうだったね。
T そういうことが森脇さんのキャリアの中でも初めてで、予算をできるだけおさえるために、取材日数と滞在箇所を減らして実現させようとしたんですよね。けれどもその時次郎さんが、「いやブータンを取材するのならば、中央ブータンのブムタンまで行かなきゃだめだ」って言ったんですよ。
I ブムタンね。そうそう、思い出した。森脇くんは空港のあるパロと首都ティンプーともう1箇所あたりにしようとしたんだよ。
T そうなんです。1週間ぐらいでって。けれど次郎さんが、「いや、これはクルーの人数を最小規模にしてみんな現場で協力しながらでも2週間とって、町や村をホッピングしながらブムタンまで行こう」と。今回の旅はそのぐらいの期間をとらなくてはって。
I 本当は東の端まで行きたかったぐらいだからね。
T そうでしたね。それで2週間の長期取材が実現したんですよ。
I 2週間もいたっけ。
T はい、英断だったと思います。で、最終的にはこの2週間という期間があったことで、ブムタンにも行けて、そのおかげでチベット仏教の聖人ディルゴ・ケンツェ・リンポチェの転生僧であるディルゴ・ケンツェ・ヤンシ・リンポチェにもお目にかかることができたんです。東京では予定していなかったこと、予想できなかったことがあの2週間という時間のおかげで実現できたというのがいくつもありましたよね。
I 確かにそうだったね。
T ティンレイ首相へのインタビューもそうでした。東京ではまだ決まっていなかったことが、現地でパタパタパタと決まっていって、すぐに決めて実行していったのがあの取材だったんですよね。
I 東京じゃほとんどなにも決めていなかったよね。
T それがとても強く印象に残っているんです。ブータン民主化を経て最初に選ばれた首相に、日本のTVメディアとして最初にインタビューができたことや、チベット仏教最重要人物のひとりにお目にかかれたとか、先程のパトリツィアもそうですが、サプライズがたくさんありました。次郎さんって、多分他の旅でもこんなふうに取材したり、キーパーソンを見つけてきたりしているんじゃないかな、と思うんです。
I その後何度もブータンに行ってるでしょ、あんな感じは他ではないの?
T ないですよ! 次郎さんとご一緒した時のような強烈なのは(笑)。
I うーん、でもそれが僕には当たり前のことなんだよね。ブータンに初めて行く。それだけで僕はワクワクして仕方ないわけだよ。早く見たくて仕方ない。
T えぇ、えぇ。
I そして何も知らないまま行きたいわけ。自分で見つけるのが楽しいんだから、誰かにすべてお膳立てされたくないの。
T はい。
I そうしたらね、必ず出てくるんだよ。キョロキョロしていれば、しつこく。
T キョロキョロしつこく。
I でもそれは僕だけじゃないよ、敏惠さん。僕の仲間の編集者もそう。みんな、どっちかっていうと性格悪いというか、疑り深い。それと同時に、本当のことを追求する欲が強い。それが表面的には疑り深く見えたりするんだ。あと飽きっぽいよね。
T あぁ、わかります。
I 疑り深い、飽きっぽい、それでいながらしつこいというのも大事。諦めないことね。一般的には非常に嫌な性格と思われる部分は、編集者にはとても大切。
T えぇ。
I だからね、敏惠さんと一緒に行ったブータンで、僕がしていた行為もそういうことなんだよ。疑り深さ、ねばっこさ、飽きっぽさがね。まだ他があるんじゃないか、まだおもしろいことがあるんじゃないか、その先をまだ見たいっていう……。
T あと、勘のよさもありませんか。それと決断力。
I それはね、せっかちなんだよ。思いついたらすぐに行動したくて仕方ない。
T ブータンでは、次郎さんのそんな行動力を間近に見ました。お寺の壁に描かれていたマンダラ絵を見た次郎さんが、すぐに「これを描いた人に会えないか」と言って、探してもらって会いに行きましたよね。ガラッと旅程は変わるんですが、行っちゃえという。この決断力と行動力がおもしろいことに繋がる……。
I そのね、ガラッと変えるというのも大事なの。予定調和の中で取材していると心地いいけれど、あれっ!という驚きがなくてつまらないんだよね。
T ガラッと変えると、そこで思いもよらないことに派生したりしますものね。私はここ3年で5回ぐらいベトナムにいってるんですけれど……。
I あ、そうなんだ。どこ行ったの? ハノイ?
T ハノイも行きましたし、あとはホーチミンシティとニャチャン、ホイアン、それにクルーズの取材でミトーというメコン川沿いの町に行きました。
I あ、ミトーね。行ったよ。
T それで、ハノイできれいな刺繍が細工されている袋を見つけたら、あれ、これ次郎さんの古希のお祝いでお土産にいただいたものだって気づいて。
I ハノイの近くに刺繍の村があるんだよね。
T 他にも、一昨年昨年とニューヨークに取材に行っているんですが、それより少し前からACEホテルをチェックしたいと思っていて、3、4年前にFacebookで「誰かACEに泊まったことある人いませんか?」とポストしたら、次郎さんの秘書の利佳子さんから「次郎さんが泊まってるので、聞いてみたらどうですか?」と返事をいただいたんです。なんだかんだいってすべての海外の取材の種や興味が次郎さんに通じているんじゃないかと思います。おもしろいと思うところは、すでに次郎さんのマーキングがされてて(笑)。
I マーキングしてる? ははは。でもそれは少し大げさだよ(笑)。かつてに比べたら、僕も全然海外に行かなくなったし。



<その4>

“旅はハナの利き具合がものすごく
試されるような気がします”(田中敏惠)

T ハナが利くのは編集者にとってとても大切なことだと思います。そういう意味で、旅ってそのハナの利き具合がものすごく試されるような気がするんですよね。ぶっつけ本番ですし、次がない。時間も限られている中で、ハナを利かせ、決断しなくてはいけません。
I 僕だって、必死で探しているんですよ。たとえばブータンに行ったときも、キョロキョロしながら、何かないかなといつも探していた。だから、最後に本屋さんを見つけたときなんかはとても嬉しかったんですよね。
T はい、行きましたね。
I こんな本屋さんがあったんだって。そこで見つけた写真集を、敏惠さんに持ってきてもらったじゃない。
T はい。あの時1冊しかなくて、翌月もブータンへ取材に行くことになっていたので、私が買ってきますって言ったんですよね。
I そうそう。
T 『Buddhist Himalaya』っていう……。そこにありますね。
I これね、すごい写真集なんだよね。
T ここに登場するディルゴ・ケンセ・リンポチェの転生僧にブムタンで会ったんですよね。
I そうだったね。
T 日本では決まっていなかったことでしたが、コーディネートを頼んだ友人のタシさんが尽力してくれて……。
I タシね、彼は静かに頑張ってくれたよね。
T 本来なら簡単にお会いすることは難しい方。しかも前々からお願いしていたわけでもなかったのに、お目にかかれたのは本当に幸運でした。
I そういう熱い気持ちって、国は違っても伝わるんだよね。だって首相にもインタビューできたわけだし。
T 首相インタビューも向こうに行ってから決まりましたもんね。次郎さんとの旅の後も私はブータンに通っていますが、次郎さんとの取材で得たご縁がとても生かされています。
I 取材っていつもそう。この間も、ポルシェの取材でシュツットガルトに行ってた。
T はい。
I ポルシェがテーマの1時間番組の取材だったんだけれど、ポルシェが生産をスタートさせ最初のクーペ44台と8台のコンヴァーチブルを作ったのが、オーストリアの小さい村で、グミュントというところ。ポルシェという車は、この村でポルシェ博士が息子のフェルディナンドと生産を開始した。その後シュツットガルトに移って現在に至るまでシュツットガルトが本社なんだけれど、オリジンであるグミュントは僕がどうしても取材したいと主張した。無理を承知で。そうしたら小さなポルシェの私設ミュージアムを運営しているおじいさんがいた。この小さい村でポルシェが生まれたことに誇りを持っていて、自分のポルシェコレクションを陳列している。かなり真面目にやっているので、本家もポルシェの名前を使うことを許諾しているんだ。そしてドクターポルシェがいつもごはんを食べに来ていたという村の食堂で、最後におじいさんにインタビューしたんだよ。
T はい。
I インタビュアーは松浦弥太郎さんで。
T えぇ。
I そこでおじいさんが、とてもいい話をしてくれた。取材大成功ってディレクターの森脇くんも喜んでいたわけ。でも僕はどうしてもそのおじいさんに聞きたいことがあったんで、追加で質問したの。しつこく。
T 次郎さんが。
I そう。「44台ある最初のポルシェのうち、数台はシュツットガルトのポルシェ博物館に収蔵されていますけれど、まだ数十台あります。その中で現存するものはないんですかね?」って。「オリジナルのポルシェがどうしても見たいんです」って。そうしたら「あるよ、ウチにある」って言うんだよ。
T えぇ!?
I そのおじいさんは、我々が修復前のボロボロのオリジナルのポルシェを見たいなんて思っていなかったそうで、それまで話には出ていなかったけれど実は1台所有していた。私設ミュージアムには展示していないけれど、自宅のガレージの中にあったんだよ、20番目に作られたポルシェが。
T すごいですね!
I それを見せてください、って急いで向かったの。ディレクターはもう仕事は終わったと思っているから外でのんきにタバコなんか吸っていたんだけれどね(笑)。
T (笑)。
I 歩いて5分もしたら自宅だった。鍵のかかったガレージ開けて見せてもらった。アルミを手で打ったボディの手作りのポルシェで、20という刻印も確認できた。いちばん見たかったものが目の前にあったんだ。そんなことがあって最高のシーンが撮れたわけだよ。
T わぁ。





<その5>

“次にどこへ旅したいかと聞かれると困る。
どこでもおもしろいものは見つけられるから”(石川)

I それは、ほんのちょっとの差なんだよ。あの村で「オリジナルのポルシェがどうしても見たい」と思うか思わないか。それを聞くか聞かないかで成果が変わってくるんだ。
T オリジナルポルシェとの出会いがあるかないかでは全然違いますよね。
I そうだと思う。
T 全然話は変わりますが、次郎さんが今一番行きたい旅先ってどこですか?
I 行きたい所? うーん、そういう質問がいちばん難しいんだよね。
T キューバって行ったことあります?
I あるよ。2回。
T 2回も。
I 一度目が1997年かな。僕のキューバの写真見る? 書斎の方にあって動かせないからこっち来て。
T この写真素敵ですね!
I これは自分がスナップで撮ったものを、プリントして並べただけ。これがキューバで、あっちがインド。
T かっこいいです。次郎さんって旅先でとても写真を撮られますよね。
I 僕の場合、全くの記録。良い写真を撮ろうなんて気は無い。でもこうやってまとめて額装するとちょっといいでしょ?
T はい、街の気配が伝わってきます。あと、先程ちょっと触れたヌードですが、80年代にブルータスで『裸の絶対温度』という特集を次郎さんが組んだ後、警視庁から呼び出され駆け引きしたという話もすごく印象に残っています。
I 何がNGだったか聞き出して、すぐ第2弾を企画してまた完売したってやつね。
T はい。ヘアヌードを最初に企画したのが次郎さんで、とっても話題になったけれど同時に桜田門からお呼び出しがかかって……。
I 『裸の絶対温度』の1号目は85年だね。この号だけ表紙のデザインを変えたんだよね。まだ樋口可南子さんの写真集の前だよ。
T 篠山紀信さん撮影のヘアヌードですね。それより何年も前に次郎さんは『BRUTUS』でやっていた。
I もうそろそろ時代としても大丈夫だろうと。とにかく全部出しちゃえ、責任は自分が取るよ、ってやっちゃったの。そうしたら呼び出しが来た。
T そこでどんなこと言われたんですか?
I これがアートだっていうのはわかるっていうの。でもやっぱりヘアは一応ダメなんで、話だけは聞かせてもらいたいってね。けれど、話っていったって、向こうは大したこと聞かないの。怒られている気もしないんだよ。
T へぇ。
I 大した話もせずに「これからもがんばってください」って帰されそうになって、それで「え、それじゃあ何のためにここまで来たんだろう」って思いながら「いいんですか?」って聞いたら、「今回は始末書にサインも貰ったし、これでいいです」って。それでは自分が聞きたいことだけは聞いて帰ろうと思って「僕から質問してもいいですか」ってお願いした。
T はい。
I 「この中で全部のヌードがダメだったわけじゃないですよね、この中のいくつかがダメなんですよね」って。そうしたら担当官がにやって笑って「まぁ、そうだね」っていう。「対象になったものがあるんですよね」と聞いたら「その通りです」と答える。「では今後のためにもそれを教えてほしい」と頼んだら「わかりました」と。3点だけが問題になったというのでそれを教えてもらった時、内心しめた!と思ったね。すぐに副編集長に電話してこう言ったんだ。「大収穫だぞ、NGがなにか分かったから、それを除いて『裸の絶対温度パート2』を出そう!」。
T (笑)。さすがです!
I それですぐにパート2を出したらこちらも完売(笑)。その後篠山さんも樋口可南子さんの写真集出したってわけ。
T 何度伺っても良い話だなぁ(笑)。最初にメルボルンの話が出ましたが、次どこか行く予定あるんですか?
I もしかしたらハワイに行くかもしれない。来年は全日空がハワイに本腰入れてくるので、日本航空と対決になること間違いなし。だから日本航空にハワイのPR番組を提案しようと思っている。
T そうなんですね。
I でもね、どこの国に取材に行ってもどこもおもしろいんだよ。だからどこに行きたいかって聞かれると本当困っちゃう。どんな旅先でも、おもしろいことは見つけられるという自信だけはあるからね。